日本学士院

第40回公開講演会講演要旨

共通テーマ 学問のみなもと

1) 国語の歴史の流れ
—現代語の祖先・平安時代のことば—   築島 裕   

 国語についての研究は、鎌倉時代に盛んに行われるようになったが、これが現在の学問的考察のみなもとになったということができる。鎌倉時代に取り上げられたのは、平安時代の古今和歌集や源氏物語などの仮名文のことばであった。鎌倉時代になると、話し言葉は、発音も、文法も、単語も、歴史的に変化してしまい、典雅な平安時代のことばを正確に理解して、それを模範として使うべき必要が生じたのである。その流れは、その後、明治時代まで長く続いていった。
平安時代の源氏物語などのことばは、平仮名で書かれていたが、この時代には、それとは別に、漢文のことばの世界があった。漢学者や仏教の学僧などが、漢文に返り点等の符号や送り仮名などを書き加えて、国語として読み下していたが、そのことばは、文法も、単語も、平仮名文とは大幅に違っていた。鎌倉時代以後、この両方が混じり合い、平家物語や徒然草などの作品が生まれた。その中では、漢文の訓読の文法や単語が、大きな要素を占めており、この流れが現代に及んで「文語体」となった。今回は、この文語体の一つの源流である漢文訓読を、平安時代のことばの一環として捉えて見たい。

2) なぜ数学するの?   広中平祐

 二十数年前の話になるが、京都の小学校から講演の依頼があった。湯川秀樹先生の母校と聞いて引き受けたのは良かったが、当時の私には小学生相手の話術など皆無だった。だから、かたどおりの自己紹介をしたあとは、もう何でもよいから質問してくださいと言ったら意外といろいろの質問が出た。そのなかの一つで私が答に窮したのが本日の演題である。その後、何度か、その質問を思い出して思案した。
「答え方」は幾通りも思いつく。曰く、数学は「唯一得意とする学問だから」、「パズルのように解くのが面白いから」、「論理的で正確で答が明快だから」、「未解決の難問にチャレンジできるから」、「確実な真理の探究だから」、「いつかは実社会に役立つと信じるから」、「私の職業だから」、「私の宿命だから」、などなど。どれも一応ごもっともなのだが、どれをとってもしっくりしない。「答え」の模索は今後も続くだろう。
数学とはどんな学問か。これの答も数学者によって様々なのは当然としても、私自身に一言でいえる答が無い。しかし、何を研究の対象とするかと聞かれたら、私の答は明快である。数学には三つの基本対象がある。それは「数」と「形」と「動」である。人類史の中で、「数」や「形」の歴史は古い。「形」に対する数学的思索は古代エジプトのピラミッドを見ても明らか。また、抽象的な「数」の学問的思考はピタゴラス以前からあった。「動」すなわち運動とか変化とかに関する哲学的考察は同じく古くからあったが、数学となったのは、うんと新鮮で、15世紀のガリレオやケプラー、さらに16世紀のニュートン、ライプニツ、関孝和の微分積分と差分の概念を待たなければならなかった。それら三つのお題目を後ろ盾にして、数学的世界観とも言えるものを模索してみたい。